2011-03-31

三岳(福知山市) 正翁の見た景色


 春が急いだのか、じいさんが粘ったのか。
 「そのご老人は春を待たずして往こうとしている」と2月9日に書いた。ところが、そのご老人、息を引き取ったのは昨日3月29日のことだ。2ヶ月弱をもちこたえた。春はすでに来ていた。間に合わなかったのは桜だけだ。


 臨終は深夜1時52分だった。娘さんは朝7時を待って会社の仲間全員に訃報のメールを打った。メールを受け取った一人が言った。1痔52分と書いてましたねえ。
 いいではないか。痔という漢字は寺に入るまで治らぬ病だ。父はやっとこれで病から解放されましたという意味にもなりはしないか。


 「3月になれば喜寿の誕生日なんですけど」と娘さんが主治医に話した。主治医は首をかしげたまま何も答えなかった---私はそうも書いた。
 じいさんは主治医の予測をみごとに裏切った。3月11日、77歳喜寿の誕生日をぎりぎりの体力のなかで迎えた。脱脂綿に含ませた酒を孫が唇に持っていった。無類の酒好きだったおじいちゃんへ誕生日のお祝いだ。じいさんはなんとその酒に吸い付いた。それだけでも喜寿の価値があった。

 じいさんの奥さんとメールをやりとりするうちに、いつの間にかじいさんの呼び名が正翁になっていた。名前の一文字に翁をつけたものだ。


 正翁は福知山市の山村部三岳の出身だ。正翁が子供の頃は天田郡三岳村だった。1955年に福知山市の一部になった。三岳の奥には標高839mの三岳山が居座る。鎌倉時代にはすでに開山され修験道で人を集めていたと聞く。
 そして、三岳の米はおいしい。三岳には正翁の竹馬の友という方がおられて、正翁一家はその方のお米を食べている。おすそ分けに新米をいただいたことがある。昔ながらの米の味がした。土に由来するおいしさを感じた。


 正翁が息を引き取った日、ちょうど久美浜病院に向かう用事があった。久美浜へは三岳を通るルートがある。いつもは通り過ぎるだけの三岳に少しだけ寄り道したくなった。

 丹波高地の家並みはどこも美しい。三岳もそうだ。なにか由緒ありげな立派なお屋敷が小高い場所に並んでいる。やはり気にかかる。あんなに立派なお屋敷だなんて、こんな何もないところでどうやったら金持ちになれるのだろう。わからないのは私が勉強不足だからだ。かつては山村を豊かにする経済構造があったに違いない。小高い場所を占有する家々が支配層だったのかもしれない。
 正翁の生家がどこにあるのか知らないが、あれだけ立派なお屋敷ならば正翁も見ていたはずだと勝手に決め込んだ。正翁の弟さんによると、束ねられた刀が実家の蔵の中にあったという。百姓一揆用に常備されていた刀だそうだ。正翁の血筋がそんな家柄ならば、いま目指すあの小高い場所に生家があっても不思議ではない。



 立派な屋敷のなかのいくつかはすでに住む人がいなくなっていた。元の住人がときどき農作業に戻ってくるだけという屋敷もあった。都会の金持ちに買い取られてこざっぱりと修繕された屋敷もあった。かつて田んぼだったと思われる地面には草も生えていた。石を並べただけの墓標は誰を弔ったものなのだろうか。弔うの語源は「訪ふ(とぶらふ)」だという。袖すりあうも他生の縁でご喪家(そうけ)を訪れる。それが弔うだ。今夜、正翁のお通夜で、綾部隠龍寺のご住職がそう説法された。三岳の石の墓標を訪ふ人はいまもいるのだろうか。



 正翁は1934年生まれだ。子供時代は第二次世界大戦のさなかだったことになる。戦時中の福知山は大阪からの集団疎開先になっていたくらいだから、天田郡三岳村での食料事情はそう悲惨ではなかっただろうと想像できる。村にとっての打撃は戦後の高度経済成長時代だったに違いない。福知山市との合併が1955年という歴史も過疎化の始まりを物語っているように見える。正翁も村を出た一人だった。遠く北の大地に活路を見出した。福知山に戻って居を構えたのは19年前のことだ。



 国道424号線を走ると「帰っておいでよみたけの里へ」の看板が立っている。
 正翁は三岳の里に帰っていくのだろうか。いや、帰るつもりはないだろう。正翁が奥さんに初めて出会ったとき、奥さんにはすでに恋人がいた。正翁はあきらめなかった。委細かまわず粘り強く突進した。しつこくいった。そこまで惚れ込んだ女房を残してひとりで三岳へ帰るはずがない。お通夜の席、いちばん泣いていたのは奥さんだった。


 いまホテルサンルートの615号室から隣の福知山シティーホールを見下ろしている。夜が明けてきた。午前10時、正翁の告別式がここで始まる。戒名をもらって正翁は正嶽さんに名前を変えた。

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