2012-04-10

大飯原発のおおい町⑨ 百聞は一見にしかず

青戸大橋

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 ホテルうみんぴあの大きなガラス窓から見る青戸大橋。
 朝陽を受けて赤い色がいっそう鮮やかです。
 大島半島の最先端に位置する大飯原発へはこの橋を渡っていきます。

青戸大橋


 「『原発銀座からの問い』―原発関連施設をめぐる地域変動と新たな課題に焦点をあててー」という論文があります。
 そのなかにこんな記述を見つけました。

 「若狭高校を卒業後、大飯町役場に勤める大島住民であった私は、毎朝早くに小さなポンポン舟(連絡船)に乗って本郷の町役場に出勤し、夕暮れにまたポンポン舟に乗って大島に帰る…。これを繰り返すのが私の運命なのだと思い込んでいました…。」
 ある大飯町民は、原発がやって来るまでの頃を振り返って語ってくれた。現在、4基の原子炉が聳え立つ大飯町大島地区は、原発がやって来るまでは孤島であった。一日に四本だけの町営定期船で結ばれていた漁村に突如として原発誘致の話が舞い込んできたのは1969年(S44)のことである。

 原発が決まった大島半島には広い車道が生まれました。半島へのショートカットを可能にする青戸大橋も架けられました。船舶免許しか持っていなかった半島の漁師たちがいっせいに車の運転免許取得に走ったというエピソードもあります。



 上記の論文を書いたのは、早稲田大学第二文学部社会人間学専修の学生だった森本いずみさんです。論文提出は2004年。当時、森本いずみさんは4年生でした。おそらく卒論だったのでしょう。

 森本いずみさんは、美浜原発のある美浜町で生まれ小浜市で育ちました。小浜市は美浜原発と大飯原発に挟まれています。海と原発の景色が日常化しすぎていた、原発をことさらに意識しなかったと、彼女は回顧しています。

 そんな彼女が、東京に出てから、原発の地で育った自分を意識し始めます。そして、ふるさとのいちばん困難な問題を論文のテーマに取り上げるに至ります。全文をPDFファイルでダウンロードすることができます。Click to ダウンロード


 ご承知のように、福井県には15基の原発が集中しています。その政治的背景を、森本いずみさんが分析しています。

 彼女の分析は、田中角栄が頭角を現し始めた1960年代半ばに遡ります。彼女の文章をそのまま引用するのではマナーがわるすぎますので、私の解釈を加えて紹介します。

 当時の福井県は保守王国でした。その福井県から大物議員が生まれます。坪川信三、福田一、植木庚子郎の自民党3議員です。この3議員はいずれもが入閣を果たしました。それくらいの有力代議士ですから、福井県の要望を中央に吸い上げる役割を請け負いました。
 当時、この3議員と太いパイプ関係を保っていたのが、北栄三福井県知事でした。北栄三知事は、太いパイプを生かして、国が力を入れ始めた原子力発電所の県内誘致を進めました。

 ところが、その北栄三知事は、1967年の知事選で、地元出身の新人、中川平太夫候補に敗れます。
 反自民・反北県政を訴えて当選した中川知事は、独自の地域振興策として福井臨海工業地帯造成に着手しました。しかし、中川知事のヨミほどには高度経済成長期が続かず、知事の失敗によって県の財政が悪化する事態を招きました。

 反自民で知事になった男の失策を県内の保守派が見過ごしてくれるはずありません。中川知事は保守派との折り合いをつけるために、原発への慎重姿勢を取り下げ、原発推進派の道を歩き始めました。
 原発を切り札にした国との取り引きは福井県側にとって有利でした。中川知事は、福井空港、北陸新幹線、福井医科大学など、あれこれ県益を引き出すことに成功します。
 もちろん、Give and takeですから、原発推進のほうもきちんと約束を果たさねばなりません。
 福井県はこうして原発銀座化していきました・・・とさ。


 森本いずみさんが注目した1960年~70年は、なにせ、利益誘導型の国政が花バナナしかった、いや華々しかった時代です。
 彼女の分析を読んでいますと、さしたる理念もなく一獲千金狙いで郷土を原発銀座化させていった県政を見てとれる気がします。

 そのような原発誘致は、県政リード型、国との取引型だったゆえに、肝心のおおい町(当時は大飯町)は情勢に流されるままだったようです。
 あの時代を振り返りますと、そのような現象はなにも福井県の原発だけではありませんでした。ダム、道路、リゾート開発。日本の各地が大型公共事業に沸いていました。大物政治家の絡む
いわゆる「土建屋政治」は、田舎へ行くほど顕著でした。

 森本いずみさんは次のように書いています。

地元でのインタビューを続けていくうちに、私はあることに気が付いた。それは、多くの人々が何故、大飯町に発電所が立っているのかをよく知らないということである。それには多くの原因があると思われるが、根本的な原因としては、長らく原子力事業は私企業ではなく事実上は国策の名のもとに進められて来たが故に、一般の人々が詳細を知る機会が少ないということが指摘できる。つまり、地元の行政・人々の積極的な意思によって「原発を誘致した」というよりは、正直なところ「原発を受け入れざるを得なかった」という表現のほうが正しい。

 いまはどうやねん?それがどれだけ変わってん?
 私はそう思います。

 福井県は再稼動と北陸新幹線で取り引きを図ろうとしています。国が前のめりの今回は、福井県の言い分を通しやすい情況です。
 一昨日も運輸大臣が福井に来ていました。枝野経済産業大臣が、再稼動の了解を得るべく福井県を訪れようとしています。その前に運輸大臣がやってきた。新幹線へのいい答えを事前にもってきたのかもしれないし、過大な期待はするなと釘を刺しに来たのかもしれない。 

 でも、たとえ新幹線が走っても、
おおい町は通りません。敦賀から大阪へ向かうだけです。
 新幹線の餌にされる大飯原発。人柱のおおい町。そう思えてなりません。

 森本いずみさんはいまどこから今回の再稼動問題を見つめているのでしょうか。




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