2012-09-27

水口、古城山と岡山城(滋賀県甲賀市水口町) 50年ぶりに登った

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 私の生まれ故郷、滋賀県甲賀市水口町の古城山(しろやま)へ、弁当を持って登りました。

 よその風土や歴史ばっかりをブログのネタにしていて、生まれ故郷で登場するといえば、両親や美代子おばさんばかり。
 それではいけません。文化のかおりがありません。

 故郷の水口は、東海道五十三次の宿場町です。
 江戸時代は徳川家の直轄領でもありました。
 それに、秀吉の時代に築かれた岡山城は、豊臣家の近江国支配にとって重要な軍事拠点でした。
 その岡山城がこの古城山のてっぺんにそびえていたのです。



一夜城プロジェクト よみがえれ水口岡山城!


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 その古城山のてっぺんに、平成の新城を築こうとしている男たちがいました。
 といいましても、水口町青年会議所が音頭をとるプロジェクトですから、パーツを段ボールでこしらえて、それを組み合わせてできあがる城です。

 天守閣の高さも石垣の幅も18mだと、現地にいたメンバーから聞きました。段ボール製の城とはいえ、かなりの大きさです。写真のように鉄パイプの足場も組まれて、専門業者が作業に当たっていました。

 このプロジェクトは、「一夜城プロジェクト よみがえれ水口岡山城!」と名付けられています。
 城が完成するのは9月29日土曜日。よさこい祭りイベント「ござれGO−SHU!」の日程に合わせてあります。
 なんと、城の建築風景を関西テレビが取材に来ていました。関西テレビよりも早くブログにしたいとあせっている次第です。


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戦国時代のようにのぼりを掲げて

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関西テレビのテレビカメラ



ここが関が原になっていたかもしれない

 岡山城の築城は1585年。豊臣方の城でした。本能寺の変の3年後、関が原の合戦15年前のことです。安土城を除けば近江国随一の城郭規模であったと推測できるそうです。

 関が原合戦当時の城主は長束正家でした。正家は西軍として関が原に参戦しました。敗軍側の将が主であった岡山城は、徳川の世に移ってまもなく廃城に追い込まれてしまいました。

 岡山城を用なしにおとしめた徳川家でしたが、水口の地理的重要性までを無視したわけではありません。水口藩は幕府の直轄領となり、徳川家独自の城が新たに築かれました。
 時は変われど、やはり交通の要衝。いざという事態に際してどちらに寝返るかわからない他人を置くわけにはいかなかったのでしょう。

 そして、いまの水口は、平和堂、西友、アヤハディオ、カインズモール、ユニクロ、ニトリ、K's電気・・・
 交通の要衝であることを大型店舗が証明しています。

 戦国時代末期、大阪に天下統一の本拠地を構えるまでに昇り詰めた秀吉とはいえ、近江国のリスクマネジメントはなおも必須の課題でした。琵琶湖の水路、北国道、中山道、東海道の陸路を掌握する必要がありました。

 東海道を通って伊勢・近江国境の鈴鹿峠越えで大阪を目指す仮想敵武将。それが秀吉の頭の中にあったはずです。鈴鹿を越えた敵は東海道をさらに西へと進みます。
 その敵との戦を有利に運ぶべく水口に岡山城を配したであろうことは想像に難くありません。

 「家康の考えひとつで」と、段ボール城プロジェクトに加わるひとりの男性が言いました。
 「関が原よりも、ここが合戦場になっていたかもしれません」。

 彼は近江弁ではありませんでした。何かの理由で他県から水口に移ってきた人だろうと思いました。「歴史好きにとって滋賀県はたまりません」と言っていました。
 よそ者のほうが風土や歴史に思い入れ深いのはよくあることです。

 「ここが」と彼が指差す方向に、私の生まれ育った水口の町並みがありました。

 その景色が、思ったよりも郷愁に満ちていました。
 思わず感傷的になりかけた自分に気づいた私は、「水口の人は誰もそんなこと考えてはらへんわ」と毒づいてしまいました。
 それまでよくしゃべっていた彼が、ぐっと言葉に詰まりました。彼にはとてもわるいことをしてしまいました。



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けっこういけてる風景ではないかと思った



古城山高くあらずとも


 弁当は持ってきました。箸を忘れました。
 しかも、頂上までの山道で弁当を落としてしまいました。弁当箱はしばし山道を転げ落ち、案の定、中味がぐちゃぐちゃになっていました。

 目にしたこともない岡山城を段ボールで復元するプロジェクトの如く、元の配置を思い描きつつ弁当の中味を並べ替えました。
 ハンバーグのソースとサトイモの煮っ転がしで指がぬるぬるになりました。その指先のままでシャッターを押してから、ほんまに写真にする必要があったんか?と自問自答しました。


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ぐちゃぐちゃの弁当をここまで並べなおした

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古城山頂から鈴鹿山系を遠望


pho15-03-01水口の平地にお椀をふせて置いたような古城山


 高さたった100mの古城山ですが、そこだけがお椀をふせたような丘陵地です(上の写真は滋賀県の公式サイトから転用)。四方の平坦な地形に助けられて、琵琶湖までが見通せます。弁当を口に運びながら、よくまあこれだけ要害向けの山がここにあったものだと、あらためて感心しました。

 「城山高くあらずとも」で始まるのは、水口小学校の校歌です。作詞者は巌谷小波(いわやさざなみ)。「富士は日本一の山」の作詞者でもあります。
 日本のアンデルセンとも称された児童文学家、巌谷小波は、水口藩医の家系に生まれました。

 文語調の難しい校歌を私たちはいい加減に歌いました。全校集会ではそのたびに歌いなおしでした。

 岡山城水壕の名残りとされる馬渡川(まわたりかわ)の流れを、「ばばたれがわ」とみんなが呼んでいました。私も友達も、誰も本当の川の名を知りませんでした。
 そして、「ばばたれがわ」と呼ぶにふさわしいくらいに汚い川でした。川の汚れは、高度成長期で暮らしが変わり始めた兆しだったのでしょう。

 そう、たしかに高度成長期でした。私が小学校6年生の年に、東京オリンピックの聖火リレーが町を通りました。ライオンズクラブが鼓笛隊用の打楽器を寄付してくれました。水口小学校に初の鼓笛隊が誕生しました。

 鼓笛隊を指導する女の先生が音痴でした。「君が代行進曲」、ドドドーミファソラシドという曲の頭を正しい音程で歌えませんでした。どうでなくても音楽の先生はワルガキからバカにされます。よってたかって何回も泣かしました。

 思えば、ほぼ50年ぶりに古城山へ登ったことになります。山道沿いに並ぶ野仏さんに子供時代は気づきませんでした。
 気づかなかったのではなくて、見えていても見ていなかったのでしょう。古城山越えは蛇谷(じゃだに)への短絡ルートにすぎませんでした。
 蛇谷は土砂崩れの危険性が大きな場所でした。行くなと言われていました。
 その蛇谷で誰の身にも何も起こらなかったのは、野仏さんのおかげだったかもしれません。

 蛇谷は子供が遊ぶだけでも土砂が崩れるはずだったのに、いまは立派な住宅地になっています。

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