2013-04-10

谷野食堂(滋賀県甲賀市水口町) 水口高校前の古きよき店

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 私が生まれ育った町、滋賀県甲賀市水口。
 この季節の水口高校は桜に抱きかかえられるかのようです。
 私が高校生当時は甲賀高校という校名でした。名前は変わっても、この桜並木、このセーラー服は変わりません。
 そして、もうひとつ変わらぬものは、学校近くの谷野食堂です。
 「秘密のケンミンショー」を通じてすっかり有名になった谷野食堂に入りました。

 

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 この店で初めて食べたのは、中学3年生の2学期でした。

 玉、おくれ。

 うどんを食っている中学生も高校生も、みんな決まって「玉、おくれ」をやっていました。食べ終わったうどんの丼を手にテーブルを立ち、店と厨房とを仕切るカウンター越しに言うのです。

 玉、おくれ。

 玉というのはうどんの玉のことです。

 「あんたも玉か」と、おばさんかおじさんが応じてくれて、茹で上がったばかりのひと玉のうどんをざるから丼にバサっとあけてくれます。20円だったか30円だったか、玉の代金を払った学生は、熱いうどんでまた湯気が立ち登り始めた丼をテーブルに持ち帰り、一杯めと同じ勢いでズズズーッと食べ始めます。

 こんな得なことがあるのか!
 初めて食べる私にはちょっとした驚きでした。私をここに連れてきたサッカー部の連中も、ことごとく「玉、おくれ」をやっていました。

 私も丼を手にして、カウンター越しに声をかけました。
 玉、おくれ。 

 「あんたも」と振り向いてくれたおばさん。
 茹でざるを手にしてうどん玉を私の丼にあけようとしたときです。 
 おばさんが「え?」という表情をしているではないですか。

 あんた、なんしてるの、丼が空っぽやんか。あんた、玉やろ。そやったら、汁残しとかなあかんやんか。みんな汁は残して持ってきはるんやで。

 サッカー部の連中は大笑いです。丼を持ったまま立ちつくしている私を見て、「おまえ、アホか」とか言ってます。

 なんや、おまえ汁飲んでしもたんか。玉だけ食うつもりやったんか。

 
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 サッカー部の連中が谷野食堂によく来ていたのは、この店の息子さんもサッカー部で、彼らの1年後輩だったからでしょう。

 あの頃に生えた陰毛がいまはもう白髪混じりに変わってしまって、それだけの年月を経て入った谷野食堂、サッカー部だった息子さんが店主になっていました。


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 すうどん380円。今日も私は汁を飲み干しました。
 「玉、おくれ」をやるつもりがなかったから?
 いえいえ、そうではありません。鰹を利かせた汁がめちゃおいしかったのです。
 そして、麺は言うまでもありません。谷野食堂は谷野製麺所でもあり、やはり子供時分からここにうどんの玉を買いに来ていました。

 亡くなった先代には申し訳ないけど、いまのおいしさは、昔の比ではありません。

 こんなにおいしいうどんをいまの高校生たちは食べているのか。

 来てくれませんよ、いまはもう。時代が違いますわ。ケンミンショー見た高校のOBの人らが、なつかしがって来てくれたりしはりますけど、そこの高校生は来てくれませんねえ。OBがねえ、奥さん連れて来はったりで、それはケンミンショーが大きかったですけどねえ。

 そのOBのなかに、私の中学時代の同窓生がいました。野球部で共に3年間を過ごした男です。彼はピッチャーでした。私は、ライトでした。その彼は、昨年、心筋梗塞でこの世を去りました。

 初老の旅行から帰ってすぐに死なはりました。亡くなる前の半年間くらい、毎日いうくらい、食べに来てくれてはりました。お葬式行きましたけど、ほらぎょうさんの人でしたよ。

 彼の葬式に多くの参列者があったのは、持って生まれた優しさや明るさで好かれていたからでしょうし、地域の野球を強くするために献身的に力を尽くしていたからでしょう。

 彼は、水口高校(当時の甲賀高校)でも野球を続けました。
 私は進学校の膳所高校に進みました。
 当時の中学生心理では、田舎町ということもあったんでしょうねえ、高校の違いは大きすぎました。二度と交わらない道に分かれてしまった気がしたくらいです。そういう苦い心境をお互い口に出さずに卒業していくのは、いまの子供たちもほぼ同じではないかと思います。

 高校の野球部で彼はエースにはなれませんでした。信楽中学から入ってきた左の豪腕投手がいたからです。皇子山球場まで夏の甲子園県予選を応援しに行ったとき、彼は外野を守っていました。

 中学最後の郡大会で、私たち野球部は、その豪球左腕が投げる信楽中学に負けました。投手ばかりか打者としてもスゴい奴で、彼が左打席から引っ張った打球が一・二塁間を抜けてきたとき、いままでに捕ったことのない速さでライトの私まで届きました。あの選手はモノが違う、この試合は負けると思いました。

 どうしたわけか、私はその左腕からヒットを打ちました。二塁手の背後に落ちるポテンヒットでした。

 ナイス流し打ち!

 一塁ベース上でベンチの仲間から声援を受けました。違うって、振り遅れただけや。分かってて言うな、アホ。

 その後、何かがうまくいって私は3塁まで進めました。しかし、一度は出されたスクイズのサインがいつの間にやら取り消されたのに気づかなかった。いくぞとばかりに、次の球で思い切りホームベースめがけて走り始めました。

 いまでも思い出したらぞっとします。投球はそのままキャッチャーが受けただけ。バントの球が地面のどこにも転がっていません。「あれ?」とか思っているうちにタッチされてアウトになってしまいました。
 その失敗で1点が奪えなかった。試合は1対0。私の大失敗で負けてしまいました。

 谷野食堂を出て立ち寄った水口高校のグラウンドでは陽が傾きかけていました。彼の後輩に当たる野球部員が練習を続けていました。


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 私は、あいつの葬式に行きませんでした。そのことを、サイン見逃したあの試合以上に申し訳なく思います。
 初老の旅行で、つまり還暦を祝って出かけた伊勢参りで、いちばんはしゃいでいたのはあいつだったと、小学校の同窓生たちから写真を見せられました。彼の葬式から半年後のことでした。

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